昭和五十一年十二月四日 朝のご理解
松永享四郎
ご理解第七十七節
「人の悪いことを、よう云う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。蔭で人を助けよ。」
昨日、教報が参りました、教団の事がこんなに沢山な、いろいろ教団の動きやら、いろいろ出て来る訳、沢山戴っとる訳でございます、毎月来る訳です、金光教、教報……これに全国の教会でいろいろな新聞とか、パンフレットの様なものを出しておるところの発表が、毎月あっとります。
ここも「おかげの泉」がございますから、時々忘れとる事があるのですよね、「おかげの泉」しかも、こんなに教団の中でも、この位信心の事ばっかり書いた本は他には無い位です、もう普通、教会だより的な、まあ云うなら宣伝の様なものが多いのですけれども、もう合楽のみ教えだけを、あの位の本にして出してるところは無いのですけれども、それが、ただ戴って来る時には、「おかげの泉」何号と云う事が戴って来るだけです。
で、昨日見せて頂きましたら、この頃から合楽だよりが出とりますから、一辺載って来たけど、それから、全然載って来んのです、
だから、こちらから送ってないのじゃろうかと、末永先生に云うたら、いや、間違いなしに送りよりますと、こう云う、どうして載って来んじゃろうかと云うたら、そしたら、昨日のに載って来とりました。
そして、気分が良いですね、沢山あるとの中に、一番初めに、いろは順に書くのですね、あれは、だから合楽だよりはいろは順でなくて、アイウエオ順ですね、合楽のアですから、一番初めに出て来る、然も、ただ合楽だよりだけでなく、昨日のには、奇跡のシリ-ズと云った様な事まで、ほ-っと書いてあるんです。
それから、「おかげの泉」も、今まで且ってない事ですけど、ご理解何節を、ご理解何節が書いてあの様な、まあ人間ちゃ、自分の都合の良い事、我が意を得たりと云う様な事、思われたりすると、気分が良い、それの反対の事をすると、どうした不行き届きな事じゃろうかと云う様な、それこそ、相手をなじったり、悪口を云うたりする様な事がありますがね。
昨日も、親教会の70年の記念祭で、ここからも百名以上だったでしょうかね、まあおかげを頂きました、行きがけに、原さんのところ一寸寄らせて頂いて、あそこで、次のバスでやって参りますのを待って一緒に行かせて貰うと思って、あそこに寄らせて頂きましたら、鹿児島へ原さんの弟さんが、勿体島から行っとられます。
それは、20年も、30年も前ですが、初めて当時の椛目のお広前に、原さんのお導きで参って見え、そして、鹿児島なら、こうして、善導寺から、行徳先生と云うのが行っとられるので、そちらで、おかげを頂かれると云うので、行徳先生に、紹介をさせて頂いて、で、昨日、その原さんが云われます事に、私は、大体は、合楽教会に一番初めにご神縁を頂いた、大体こちらに居るならば、合楽教会の信者になっとったでしょうけれども、まあ先生の紹介で、鹿児島の教会にご縁を頂いて、然も、信徒会長と云う重責にあって、もう日々ご用を頂いとります。
あちらも丁度、今度が八十年の記念祭です、丁度1年半前に記念祭が、教会がある時に、私が提言を致しまして、1人に1人導きをしようと話合いを致しました、その事について、毎月信心の共励を致しました、そして、もう殆どの人が、何人もの人があるけれども、1人のお導きがあったから、今度の記念祭は、いつもの倍あったと云う話をされました。
まあ本当にその気になる、まあ原さん、今教団で、ここでは合楽示現活動と云い、教団では、お取次ぎ成就信心生活運動の新発足と云う事が云われております。
実意丁寧神信心の心を以って人に伝えて行こうと云う事が芯であります、けどもやっぱり中心になる人の熱が、しかも、その事を云うだけではなくて、自分も行じ、それを月々の信心の、月々か毎日か知りませんけれども、その事の信心共励をさせて頂いとりましたが、いつもやはり倍のお参りがありました、と云う事が1人1人のお導きが出来た事である。
本当に元を愈々考えますと、私の信心も合楽の親先生のおかげでと云われると、気分が良い、けども今度は、それと反対になると、気分が悪い。
昨日は、私が、朝からああして皆さんに聞いて頂いた様に、お知らせを頂いておりましたから、まあどんな事があっても、どんな事を聞いても、またどんな事を見ても、心行1本で行こうと思った、まあおかげを頂いて、確かに心行と云うものは有り難い、ああもうほんとにご大祭も済んだ、ほんとにひとつも今日は心を汚さず、只有り難い有り難いおかげ頂いたと思うて、それから、ご直会会場に入らせて頂いた、そしたら、若い青年教師の先生方ばっかりの一番末座の処に私の席がとってあった。
もうそんな事はもう、以前なら心を汚しておったか知れませんね、昨日は、ちゃんとこうやって心行が出来とりますから、おかげを頂いた、そして、私の横に、北野の荒巻重治と云う名がついとった、これはどうして、荒巻先生がこげん下の処へ、ほんな入り口の一番末座の処へ、こんな若い、こげな小若え者の処へ、私よりも若先生の方は、祭員だからでしょうけれども、私より上の方へ、こう据えてあった。
で、その若先生と荒巻先生との間に、私と勝彦との間に、荒巻先生がこうあった、まあそれでも、私はどうしてこげん処に荒巻先生の席があるとじゃろうかと思いよった、それでもひとつも、別に何でもなくて、おかげ頂いとった、ところが、一番最後に、ちょっと失敗した、それが何と演出だったらしいですね、そこに、荒巻先生の席が設けられとったのは、そこに持って来ておると云うのは、すぐ若先生と変わったんです、やっぱり、私をどこに据えてよいか迷われたんです、と云うて上には据えられんから、まあ下の方に据えられとったんでしょうから、なら、私もやっぱり気分が悪くならん様に、荒巻先生と並んでしてあったと云う事は、はっきり演出であった事が判った途端に嫌な気分がしたんですね、一番最後に。
もう本当に人間と云う者は、本当にこうして皆さんに聞いて頂くのも恥ずかしい訳ですけれども、そして、なら頭の中には今日の記念祭は云うなら、合楽のおかげで出来ておると云う事なんですよ、もうそれこそお道具から、お供えから、私は今度はこれをおかげ頂くとか、これは、記念品は、私がおかげを頂くとか、頂き方じゃなくて、もう全部が出来る様に頂いとったんですが、合楽のおかげで出来とる、なら真中に百名の人達が、もし座って居なかったら、それは、大変淋しい事になっていただろう。
そう云う頭があるですね、合楽に、本当に恥ずかしい話なんですけど、心の中にそう云うものがあって、ず-っとそして、何と云うですかね、福岡の前後に、そう云う神様の演出があっておるのですけれども。
そして、今度は小倉のご大祭の祭の、福岡は記念祭でしたけれども、私がコロッと忘れとったんです、本当に、それこそ福岡の記念祭には、いつもバスに乗って、おかげを頂くのですよ、ところがもうコロッと………すぐお初穂の事やら、神様にお願いさせて頂いた、忘れさせて頂いとったんだと、これからは、もう付き合はんと、付き合うのは、ここでおかげ頂くのはもう、親教会と、まあ久留米の教会位迄、福岡の小倉のと云うのは、もう、でないともうここの動きが取れにくい、とにかく、合楽がこれから、愈々、飛躍して行く、そのおかげが云うならば邪魔になる、だからもう、お付き合いはしないと、これは、私の人間の考えとしてはもう、お世話んならんごとなっとるし、もう善導寺の手前、福岡にも行きたい、お初穂もしたい、お供えもしたい、お願いしたけれども、お許し頂かなかったです。
だから、そう云うところもある、勿論、行徳先生のところでも、私がお参りしなかったら、お初穂をことづけない事はないのですけど、今度から、鹿児島の方の、記念祭があると云うのに、お参りもしなかったし、お初穂もことづけしてなかったんです、それで、その事を神様にしっかりお願いさして頂いた、させて頂いたこっちが、本当に人間関係もスム-ズに行く様にあるのですけど、神様の願いと、私の願いは違うです。
その事をお願いさして貰いよりましたら、テレビにね、時計の振り子の様なのが三つ玉が下がってね、それがカツカツと当たってね、実に素晴らしく動くのがありましょうが、丸い玉が三つ下がっておる、片一方のがカツンと当たると、片一方のとカツンと合う、それがまあ何とも云えん素晴らしい事なのです、そう云う事を頂いとりましたら、ああ、カツンと来る事があると思うとったら、それが何とも云えん感じで、受け止められた訳です。
私が、ご挨拶に行った時に、行徳先生でも、福岡の先生でも、そりゃ、難しい雰囲気だけれども、その難しい雰囲気が何とも云えん、素晴らしい、そのカツンカツンと当たるけれど、その当たり具合が素晴らしいと云う感じだったんですよ。
ああ神様今日もおかげくださるなと、思わせて頂いた、そして、お直会に入らせて、お直会に座らせて頂いてからも、おかげ頂いとったですけれども、横に荒巻先生があると云う事でも、あの心を使うてあるなあ、私位の事の為に、こげん心を使ってあると思うて、有り難いと思いよった。
ところが、これは、演出だった事が判った時にです、途端に何んか、お神酒も頂きたくないごと、感じのするのです、本当に人間と云う者は、そして、結局どう云う事かと云うと、云うならば、合楽のおかげで、今日の記念祭は、まあ出来たと云うても、過言でもない位、もうお道具なんかでも、座布団も50枚、机も全部、横机も合楽から、持って行きました。
もう、いろんなご用の面でも合楽が居らねば出来ない様なところもおかげ頂いとります、おかげを頂いとるのも、有り難いのですけれども、なら、私の頭の中に、合楽のおかげで、この記念祭が出来とる、出来ていきよる、それが有り難いのですけれども、そこに、一寸反対の事になって来ると、合楽のおかげで出来とってからと云った様なものがある訳です。
もう、本当に恥ずかしい話です、それはね、もう何分もかかりませんけど、考えて見ると自分ばし、ご用頂いとるごと、自分がしとるとじゃない、神様がしてござる。
これは、やはり、三井教会のお徳なんです、ね、そう云うおかげを頂こうと、と云うそこに人がある事が、そりゃ三井教会のごひれいです、だから、結局は三井教会のお徳に依って、そうあらしめているのですから、私は思います、例えば、昨日まで、ああして雨風であったのが、お祭りが始まるに近づくに従って、それこそ、カンカン照りの様に、それこそ、お広前が温室の様に暖かった、やっぱり、お徳だと思います。
これはもう、久留米関係の記念祭なんか、皆そうでした、やっぱり初代石橋先生のお徳であろう、端々までこんなにおかげを頂くと思う位に、おかげと云う実感で、昨日のお祭りを拝ませて頂きました、ところが、本当に改まらなければいけない事は、自分がなしておると云った様な事。
昨日、朝の内に、森の酒井さんから、電話がかかって来た、その前日にあちらの兄さんが、先日もう大分前でしょう、交通事故に会われてから、後遺症ですか、それも頭がガンガンしたりうずくそうです、それで、福岡の病院があると云うので、夫婦が、奥さんに送られて、病院に行く途中、酒井さんの所に寄られた訳です、信心の事はとても、へちくさされた方らしいけれども、あの、その頭がガンガン云うたり、うずく様に痛いと、だから、普通の後遺症ではない、これは、愈々専門の先生にかからにゃいかんと云うて、行きがけに寄られて、酒井さんが最近おかげ頂いとる話をされたら、連れて行って呉れと云われて、奥さんと二夫婦で参って見えました。
酒井さん達夫婦と、その方達夫婦で、病院にいくと云うのを病院を止めて、合楽に参って見えた訳です、昨日電話がかかって参りましたが、今朝から、兄の所から電話がかかって来ましたが、帰らせて頂いたら、元といっちょん変わらんスッキリしとる、一晩寝たけれども痛まん、だから、もう痛むじゃろか、もう痛むじゃろかと思って、本当に何日かして、快うなっとたから、お礼にいこうと思っているが、そりばってん、あんまり気分が良い、気分が良いと主人が云うから、一寸あんたん方だけに、電話しますと云われるのです、それっきり痛まないそうです、もう普通と変わらない。
これも、昨日、一昨日でしたけど、嘉朗さんの奥さんの由喜子さんのお導きで、胃癌で手術は無事済んだけれども、ご飯が頂かれんと云うので、お願いに来とった、そして、その夕食から、ご飯を頂く様になって、大変血色が良くなって、何回かお礼に出て来ましたが、送って来られるたんびに、嫁に行っとられる娘さんが、送って来るんです、自動車で。
そして、その娘さんがです、自分が嫁入っておるところの、お母さんが、もう永年リュウマチで、足腰立たずに寝付いておられるのを、とても、こげんとばお願いしたっちゃいかんでしょうもんねと、話があり、そりゃどんな事でもお願いせにゃねて、なら、どうぞお願いして下さいと云うのが、2回前にお参りされた事ですからね、昨日、一昨日参って来てから、先生もう不思議な事にね、おかげで、自分で便所に行くごとなりましたと云う、まあ、そう云う奇跡的なおかげが、毎日合楽では、続いておりますけれども、そこには、何か交流するものがあるですね。
神様と交流する、私は、酒井さんの場合は、酒井さん達が、絶対合楽を信じてござると云う事です、しかも、お導きして連れて参って来なさる時は、必ず夫婦で見えます、夫婦で絶対おかげを頂く、お願いしたら、おかげを頂くとよく云われる、今度も、病院に行かんでよかですよ、此処にお願いしたが最後、病院に行きなさらんでも、よかですよ、このまま帰ると云うて帰られる、早速おかげを頂いとる。
私は、そのお取次ぎをさせて頂いとりましたら、丁度、時計の長い針と短い針が、キチッと12時のところで1つになったところを頂いた、その瞬間です、云うなら、取り次がせて頂く者、取次ぎを願う者の信ずる心が、ピタッと1つになった時ですね、おかげ頂くのは、なら、福岡の花屋さんですけども、その由喜子さんがお導きして来たと云うその方もそうです、もうそれこそ、1年2年じゃあない、まあ云うなら、寝糞ねばりと云う感じで寝ておる人が、云うなら姑親の事を願う。
これは、昨日の親教会の事からでもですね、自分の事より、親教会の事を、真剣に願わなければいけないのですけれどね、自分の事は一生懸命だけでは、親教会の事では、いくら形でも、言葉でよう云ったところで、やはり、自分の事が一番真剣に願っておる事を気付くのですけど、そう云う時に自分の心の汚さに気付いて、そこを改まろうと、精進する訳ですけれども。
例えば、嫁ごが、自分の親の為にね、なら、自動車で送っても来る、お願いもする、これは云うなら当たり前、けれども、姑親の事を、真剣に願うと云う事になった時に、私は、そこに何かキチッと交流するものを感じますですね。
蔭で人を助けよと云うご理解が、今日ございますが、蔭で人を助けると云う様な精神が、必ずおかげを頂くと云う事ですね、私は、あなたの事を願いしてやりよりますよと、と云うのじゃなくて、蔭で人を助けよ、仲々それは出来る事じゃないですね、ああ、あっちが何々で難儀をしよんなさる、その人の事を本当に祈らにゃおられない、そう云う心が神心です。
だから、おかげ頂くです、それが、只御座なりのものでなくて、心から願われる時に、私は、リュ-マチで寝たきりの人が便所に行ける様になったとか、酒井さんの兄さんが、普通ではない、その症状の病気がです、お参りした帰りから、おかげを頂いて、只、狐につままれた様にすっきりした、普通と変わらんと云い続けて、翌る日も痛まない、だから、2.3日これが続くまら、やっぱりおかげ頂いとるとじゃろうから、お礼に行こうと主人は云うとるけれども、それを見て奥さんが、とてもちょいとお礼を云って貰わにゃおられんと云うて、電話をかけて来たとこう云うのです。
これはどう云う事かと云うと、酒井さん夫婦の信ずると云う事だと思うのです、お取次ぎを願う者、お取次ぎをさせて頂く者、または、お供えをする人、またそのお供えを取り次がせて頂く者、それを頂く者の心が一つになる時に、おかげと仰有るのですから。
どんなに、真心をお供えさして頂く者でも、取次者が、その真心を食ってしまう様な、云わばお取次ぎをさして頂いたら、おかげは頂かん、お取次ぎを願う者が真心の、それを取り次がせて頂く者が神心、それとまた食べものであるとするならば、それを頂く家族なら家族の者の頂き方が、そこに、1つのそう云うおかげのル-トと云った様なものが、芯が通う時に、おかげと云うものが表れると云う事を感じます。
今日は、今日のご理解とは、少しもとっておる様に思いますけど、かげで人を助けると云う事、人の悪口を云ってはならん、けれども、人の悪口を云うのは楽しい様なものが、人間の心にどうにも救われがたいそう云うものがある、私の心の中に、それこそ神様のごたる事をいつも云いよるけれども、昨日のお祭りを頂いて、神様がやっぱりそう云う不安に思いなさったんでしょう、おかげを頂いて、ちゃんと前にお知らせを頂いとったから、それこそ、心行一心で、昨日の大祭を拝んで有り難いとこう思うた。
そのご直会会場に入るまで有難いと思うた、けど、ほんの最後のところで、ああおかげ頂こうと思うて、やれやれ安心じゃなかったでしょうか、それ迄カツンカツンと当たる様な事でも、なんと素晴らしいか感じて受け止める事が出来た、一番最後のところで、それは何分かではあるけれども、心を汚してしまった、そう云う心で、または、そう云う心に、自分で気付いた時にそう云う心に取り組ませて頂くと云う事が、信心なんです。
またそれが、なら、神様と交流する、人間誰しもある、大抵研いたごとある、改まったごとある、もう自分にはそう云う心はないと思いよった心があった、これも人間じゃけん、そげな事は当たり前と、腹かいてプンプンしても良い様なもんだけれども、そう云う心に取り組ませて頂く様な心、そう云う心に精進すると云う事が、神様との交流を頂くと云う事です。
だから、人並みでは人並みです、信ずると云うてもそうです、神様を信ずると云うても、確信を持って信ずる、確信を持ってお取次ぎさして貰う、そこに云わば奇跡が起こるのです、私共の心の中に悪口を云わねばおられない様な心やら、云われたら腹が立つ様な心やら、もう信心さして頂いておるなら、もう判りきっておって、今の合楽の方達は………
けれども、原さんのそれじゃないけど、もう毎月姉からおかげの泉を送って頂いて、合楽だよりも読ませて頂いて、こう云われると気分が良い、教報に載って来る、云わばここからの合楽だよりが一番に載っとる、しかも、今度は中身が詳しく、新聞には奇跡シリ-ズの事を掲示までしてあった、初めてであった。
自分に都合の良い時には、大変気分のよい、だから、それと反対の事でも、気分が良い位の事ではない、有り難い心と云う様なものがね、起こらなければいけない。
お芝居に、鏡山と云うのがありますね、尾上と岩藤のが、岩藤がいじめられるところ、もうそれこそ、惨々御殿でいじめぬかれて、帰って来た、下女のお初がそれを薄々知っとりますから、肩を揉みましょう、足をさすりましょうと云うて、慰めるところがございます、慰められれば、慰められるほど、腹が立つ、それこそ、忠臣蔵になぞらせて、主人に、塩屋判官が吉良上野介に切りつけて、そして、一家の者が離散してしまう、その例えの話までして、そのお話をするけれど、お話をすればするほど、心の中は治まらない。
それこそ、師直面(モロノオズラ)の憎さ憎さと云うて、嘆くところがあります、人間には、どうにも、これはもう信心のないのもですから、それは、師直面(モロノオズラ)の憎さ憎さ、今日、ああ云う悪態をつかれた事を、帰って思い出しただけでも、もうそれこそ死んで果てようごとある、それが親の嘆きである事も判っていながら、そうしてしまう訳ですけども、慰められれば、慰められるほど、師直面(モロノオズラ)の憎さ憎さと云うのが、これは、信心のない者の心の状態が皆同じだろうと、こう思うです。
けど、信心のある者は、理屈を判り、道理を判らせて貰うて、云うならば、その岩藤のおかげで、と云う様なものを頂いておる、それを、神愛だとまで、判らせて頂いておるにもかかわらず、やはり師直面(モロノオズラ)の憎さ憎さと云った様なものが、一寸でも心の中に動く様な事であっては、、これは、信心のない者も同じ事となるのです。
日頃、稽古をさして頂いとるから、それは、ほんのかすかなものでありましょうが、お互い、そう云うかすかな心も逃さずに、本気で、私は、取り組ませて頂く、そう云う心が、神様と交うと云うのです、所謂、受けられないおかげも、奇跡のおかげも、そこから立って来るのです。
同時に蔭で人を助けると云う事が、どの様に、その蔭で人を助けにゃおかんと云う心が、如何に神様の心の交うかと云う事を、今日は聞いて頂いたですね。 どうぞ。